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  • 2012年08月 の記事一覧

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2012年08月24日(金) 記事No.22
「あなたのしていることは良くありません。あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません」(出エジ18:18)

 一日中、民のあらゆる問題について裁いていたモーセの姿を見たしゅうとイテロの言葉です。私たちはしばしば、何でも自分でやらなければいけないと思い込み、一人で頑張りすぎてしまいます。それはもしかしたら、自己犠牲による愛の精神のつもりかもしれません。他の人のために、自分さえ我慢すれば、自分だけが苦しめば済むのではないかと思っているのかもしれません。しかしながら、このみことばによれば、これは良くないのです。自分だけでなく、この民もみんな疲れ果ててしまうだろうと言うのです。その理由は何でしょうか。はっきりしています。ひとりでするには、あなたには重すぎるからです。

 私たちもまた、この現実をきちんと受け止めなければいけません。できない人だと思われたくないという動機や、自分がやらないと誰もできないからなどの動機で、背負い込むことは正しくありません。私たちはすべてを背負うことはできないのです。できない自分、限界を持つ自分を受け入れて、他の人に助けてもらうこと。この事が結果として、自分だけでなく、私たちの周りの人をも助けることになります。

 歪んだ万能感、歪んだ自己犠牲の精神、歪んだ完璧主義から解放され、お互いに平安に歩めるようにしたいものです。神様はそういう人の弱さを知っているので、このようなみことばによって教えておられるのです。

「もし、あなたがこのことを行えば~ 中略 ~ あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」(出エジ18:23)
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2012年08月16日(木) 記事No.21
 かつて以下のような事をある本で読んだことがあります。

 人は、お金のために働いて健康を失い、健康を取り戻すためにお金を使う。家族のために寝ずに働いて立派なマイホームを手に入れるが、家族の交わりは崩壊し、借金と空っぽの家だけが残る。

 考えてみれば、なんとも滑稽で、そして切ないことではないでしょうか。人は幸せを求めて頑張っているのに、どうして幸せになれないのでしょうか。それはボタンをかけ違えているからです。一番上のボタンをかけ違えれば、すべてずれてしまいます。ですから、一番上のボタンを神様にしっかりと合わせる事を大事にしたいですね。そういう意味でも、神様ご自身が「安息を大事にせよ」と言われた事は本当に大きな事だと思わされます。週に一度は完全に休めと命令される神様は、なんと優しく配慮に富んだお方でしょうか。

「主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。」(出エジ16:29)

 神様は七日目は完全な安息の日にして、神の前に心も体も家族みんなで安らぐ時を必ず持ちなさいと教えておられます。ですので、荒野で食べ物に困った民に対して、神様は6日目まではマナという食べ物を降らせて、それを集めさせるのですが、七日目の分は六日目にまとめて与えたのです。中には欲張りで七日目にマナを探しに出た者がありました。けれど、神様はいつまでわたしの命令を守らないのかとお怒りになり、もう一度くぎを刺されたのでした。

「それで民は七日目に休んだ。」(出エジ16:30) 

神の前に休むことは怠けることではなく、神が下さる幸せな祝福に満ちた愛の戒めなのです。


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2012年08月10日(金) 記事No.20
「イワシの頭も信心から」という言葉があります。信じる者にとってはそれがイワシの頭でさえ神になるという発想です。裏を返せば、信じないならば神はいないということになりますが、本当にそうでしょうか。困難が目の前にあっても、そんなものは存在しない!と強く信じれば困難はなくなるでしょうか。残念ながら、それでなくなるなら苦労はしません。B.C.15世紀頃、エジプト人たちはイスラエル人を奴隷として使役していましたが、聖書の神様の力を身をもって体験します。「自分たちはそんな神など恐れない」という不遜な考えを持っていたために、痛い目にあったのです。そこで、聖書の神を信じていない彼らの口から出た言葉は以下の言葉です。

(主が)その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」(出エジ14:25)

エジプトから出たイスラエル人を追うエジプトの大軍でしたが、それを神様が阻みました。彼らは塩の海(紅海)にのみこまれて滅びます。神を信じないからと言って、神が与える影響を受けないという事にはならないのです。ならば、神に敵対する道より、神を信頼して味方になっていただく道の方がはるかに良いのではないでしょうか。神の怒りを体験してから「やはり神はいた」と後悔するのではなく、「神が味方でいて下さるから大丈夫!」と力強く歩める方がずっと良いのではないでしょうか。私たちの日々の戦い、すなわち罪との戦い、サタンとの戦い、あらゆる敵対するものとの戦いにおいて、神様が私たちのために戦って下さるのです。


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2012年08月07日(火) 記事No.19
8/2-4まで、中高生のキャンプに行ってまいりました。その中でディスカッションタイムを持ちました。そこで用意された一つの質問は、「死ぬ直前にイエス様を信じればそれでいいんじゃないか?」というものがありました。なぜ今信じるべきなのか?

そもそもこの問いは、クリスチャンになることが何かと不便になったり窮屈になったりするのではないか。クリスチャンとして生きる方が大変なのではないか。という発想のもとにあるように思いました。

エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの人々は、困難にぶつかるとこのように言いました。
「エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」(出エジ14:12)

これを聞いたモーセの心がどれほど痛んだ事だろうかと思います。モーセの返事はこうでした。
「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(13節)

どんなに美味しい料理も、実際に食べてみるまではその良さはわかりません。それと同様に神様が下さる救いの価値というものは、実際に信仰をもって歩んで体験しなければわからないのです。本気で信じて行動することなしには、その恵みを十分には体験できません。神様の下さる救いは、天国に行けるという将来の話が中心ではなく、今、現在、この地上での歩みにおける祝福なのです。罪の赦しの平安。あふれる感謝。愛されている喜び。試練に勝利する力。消えることなき希望。素晴らしいプレゼントが今、ここに用意されています。私たちは今日、しっかり立って、その神様の救いを見る者となりたいものです。

中高生の中から出た一つの答え。それは、機会があったのに死ぬ直前まで信じないなんて・・・「もったいない!」でした。
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