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  • 2012年09月 の記事一覧

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2012年09月27日(木) 記事No.26
神様はモーセに次のように言いました。

「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(出エジ33:20)

人はどうして神様の顔を見ることができないでしょうか。それは神様が圧倒的な聖さ(きよさ)を持っておられるからです。その聖さとは、何一つ汚れのない、罪も悪も混在しない聖さです。ある学者は神様には「罪アレルギー」があるのだと表現したほどです。一方私たちは、罪によって汚れています。心の隅々まで心を見られたら、私たちは恥ずかしくて隠れたくなるのではないでしょうか。ペテロがイエス様がすべてをご存知なのでは?と思ったとき、「私から離れて下さい。私は汚れた者です」と言ったのはまさにその心境だと思います。私たちは本来、神の赦しなしには、神の前にいてもただ滅ぶだけの存在なのです。しかしなんという恵みでしょうか。神が自ら手を伸ばし、私たちに触れて下さったのです。顔を見ることのできない神様なのに、人の姿をとることで、人に見える存在となって私たちの隣人となられたのです。そして、罪アレルギーを持つ主イエス様が、私たちの汚らわしい罪をことごとく背負って下さり、自ら罪人の扱いを受けて十字架に死んで下さいました。今日も圧倒的な聖さを持つ神が、限りない愛のゆえに私たちをその御腕にしっかりと抱いて下さるのです。


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2012年09月21日(金) 記事No.25
牧師という働きにも休養は必要ですが、重要なのはその休み方だと言えると思います。わたし自身、しばしば失敗してきたことは、「神様によって休ませていただく」ことをしなかったことだと言えます。むしろ、休みは神様の事は置いておいて、自分がしたいことだけをしよう!などと思うことがありました。けれど、どんなに自分のしたいことを楽しんでも、心が満たされないことに気づきました。いやされていないことに気づきました。むしろ、忙しい中にあっても、神様をいつも意識して歩んでいた時の方が、心にいやしがあったことに気づいたのです。

すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」(出エジ33:14)

 モーセがその働きで悩み、葛藤していた時に、神様はこのようにおっしゃいました。神の民の偶像の罪に心を痛めていたモーセでしたが、神様はその心の状態を一番良くご存知だったのです。神様は一緒に行って、その働きのただ中にあっても、あなたをちゃんと休ませようと言って下さるのです。私たちがどんなにのんびり過ごしても、心が休まらずにいるのは、このお方から心が離れているゆえではないでしょうか。私たち以上に、私たちをご存知の神様は、私たちの本当の安らぎも知っておられます。この方がいっしょに行って下さる。そばにいて私たちをその腕に抱いて下さっている。ここに本当の休息があるのです。

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2012年09月14日(金) 記事No.24
 東日本の大震災、ならびに数々の異常気象、不況、政治の腐敗、諸外国との不和。現代はまさに不安と恐れが私たちを襲う時代になっています。そのような時代に人々が一番欲しいものは「安心」ではないかと思います。けれども、その安心を手っ取り早く、自分たちの方法で得ようとした人々が犯した過ちが聖書に記されています。

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。」(出エジ32:1)

 神様から大事な啓示を賜って戻ってくるはずだったモーセでしたが、長い期間戻って来ないので人々は不安になったのです。そこで目に見える神をモーセの兄アロンに造って欲しいと頼みました。そこで造られるのが金の子牛です。私たちは金の子牛を造って拝もうとはしないでしょう。けれども、神様を求めるのではなく、身近にある手っ取り早いもので、心を満たそうとすることはないでしょうか。特に「神」にではなく「人」に依存して、安心を得ようとする傾向が私たちにはあります。人は、目に見え、しばしば自分の不安に付き合い、「大丈夫」と言ってくれるでしょう。でも、その人はいつまで私たちの隣にいるでしょうか。人は死にます。人は離れていくことがあります。人は何もできない事があります。人は個人的思いで行動し、私たちをさらに不安にさせることもあります。

人には、神の代わりはできないのです。

 神様は、私たちの不安を知っています。恐れを知っています。そして、24時間いつでもどこでも、あなたを知っています。あなたの隣にいます。この方は目に見えないけれど、確かにあなたのそばにおられるのです。あなたが求めさえすれば、必ずこの方は応えて下さいます。
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2012年09月03日(月) 記事No.23
「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼に返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」(出エジ23:4-5)

旧約聖書の細かな律法(戒め)を読む時、とても窮屈で、自分には到底受け入れられないと思うかも知れません。しかし、律法をよく味わっていくならば、神のやさしい愛を味わうことができ、愛し方を学べるのです。私たちは、愛せよと言われても、愛とはどういうものなのかわかりません。愛し方を知りません。けれど、このみことばを通して、愛とは感情ではなく、決意して行動する事だと気づきます。
ここでは自分が仲良くしている人ではなく、敵対関係にある人の迷子牛を保護し、返してあげることが教えられています。あなたを憎む人のろばが荷物の下敷きになっている場合、感情面では起こしてやりたくないと思えても、必ず!その人と一緒にろばを起こしてあげよと教えられています。

これをただの規則と理解するのか。それとも、幸せになれる素晴らしい愛の教えと理解するのか。それによって、私たちの歩みは全く変わってくるでしょう。少なくともここで具体的に愛するとは、好きでない相手であっても、困っているなら助けてあげることです。好きでない相手の迷子の牛を放っておいていい気味だと思うならば、その人は罪を犯したことになり、罪悪感に襲われ、自分の心の狭さを後に嘆くことになるかも知れません。また、敵対する人との距離も遠ざかる一方でしょう。しかし、この教えの通りに、感情は嫌だと思っても、神様がそうおっしゃるのならと決心して行動するなら、愛のわざをなしたことで満たされる思い、神のみこころに生きる幸いを体験し、罪からも守られます。場合によっては、この事を通して和解さえもあり得るかもしれません。

こうした教えを、言葉として明確にもらっている者と、この教えを全く知らない者では、全く違った歩みになるのではないでしょうか。愛するとは何かを、細かく具体的に教えて下さる神様のご配慮に心から感謝します。
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